天使病院小児科医師 外木秀文
V 青年期
パート4 ダウン症の最近の研究と診療動向
1 まずは新型コロナウイルス感染に関して
2021年春,日本でも新型コロナウイルスに対するワクチン接種が始まりました.その際,ダウン症は基礎疾患と認定され優先接種の対象となりました.かかるとリスクがあると判断されたのです.私はそれまで,ダウン症のある人はそうでない人とリスクに変わりはないはずだと考え,飛沫感染と接触感染の基本的な対策を徹底して身に付けること,そのために周囲が適切に働きかけることを強調して診療を行っていました.そうして1年が過ぎようとした2020年の末頃でしょうか,イギリスの有名な医学誌Lancetに40歳以上のダウン症のある成人では明らかに死亡率が高いとの報告が出ました.欧米から似たような報告が2つ3つ出ましたが,私自身は「ちょっと待て,大騒ぎしないように」と思っていました.新型コロナウイルスにだけ弱いのではないのだろう.ダウン症のある人とそうでない人を比較するのもいいけれど,ダウン症のある人では,新型コロナウイルスも他の呼吸器感染症のどちらもリスクは一般集団に比べて高いのではないだろうか.あるいはダウン症のある40歳の人はそうじゃない40歳の人と対等に評価しえるのだろうか?同じ年齢層と比較するのはフェアじゃないという疑問がぬぐえなかったからです.40歳以上でリスクが高いのは事実とは思いますが,何倍も高いという報告には少し疑問を持ちました.もちろんワクチンは積極的に受けるようにすべきと思いますし,あらゆる予防手段を取るべきですが,この情報が十分配慮されずに「コロナはとても怖い」とだけ知らされると,不安になったり,パニックになったり心理的なトラブルが発生しやすくなることが心配でした.最近の研究では小児ではダウン症のあるなしにかかわらずリスクは低いとされています.デルタ株,オミクロン株と新たな変異株が出現するたびにわが国も多くの罹患者が,それも若い世代や小児の罹患者が増えてきています.「普通の風邪」に近づく過程と思います.若い世代はあまり不安に駆られる必要はないと思います.ただでさえマスクや手洗いやソーシャルディスタンスだの黙食だの,それに余計な外出はしないなどストレスがたまることばかりですから,気持ちの方は安心を保証してあげたいものです.
2 脳の研究:DYRK1Aについて
昨年の夏,大阪大学の北畠先生たちのグループがダウン症の脳に影響を及ぼす重要な遺伝子と考えられていたDYRK1AとPIGPがグリア細胞の一種であるアストロサイトの増殖に影響を及ぼすこと発表しました.脳には神経活動すなわち意識を保ったり,痛みや寒さを感じたり,見たり聞いたり,手足を動かしたり,物を考えたり,記憶したりする機能があります.これらの脳の仕事はニューロンと呼ばれる神経細胞が行っています.そのような仕事をする神経細胞は我々の脳に1000億個以上あると言われており,それぞれの細胞から軸索や多くの樹状突起と呼ばれる長い突起物がでて他の神経細胞とシナプスという接合部でつながっています.シナプスでは突起の末端と神経細胞の間に非常に狭い間隙がありそこにシグナルを伝えるときに神経伝達物質が放出されます.セロトニンやアセチルコリン,GABA,あるいはドーパミンなどいろいろな伝達物質がありそれぞれ意味のあるシグナルを伝える仕組みです.その神経伝達物質を放出するシグナルを伝えるのは神経細胞が興奮して発する電気信号です.このようにして神経細胞は脳の中でネットワークを作っているのですね.この電気信号はショートするといけないので,お互いの神経細胞は幾分離れ離れに存在しています.また,シグナルが伝わる長い突起物はいわゆる電線にあたりますから,他の電線と混戦しないよう絶縁されなければなりません.この絶縁や距離を埋めるための細胞がグリアと呼ばれるものです.もともとニューロンと同じ細胞から分化したものですが,グリアはその他に神経細胞に栄養を支給したり,過剰なイオンや神経伝達物質を速やかに除去する働きがあり神経細胞の活動を支える重要な役目をしています.その代表的な細胞がアストロサイトと呼ばれる細胞です.ダウン症ではニューロンの数が少なく,突起によるネットワークもやや不十分である一方,アストロサイトは人一倍増殖することがわかってきました.ニューロンとアストロサイトの増殖のバランスが悪いのですね.その原因になるのがDYRK1Aという遺伝子の働きです. ダウン症は21番染色体が1本過剰にあるのが原因なのは皆さんご存知でしょう.ですが,まれに,21番染色体の一部分のみがトリソミーとなる人がいます.そのようなヒトのトリソミー部分にこそ,ダウン症の病態の本質に関わる遺伝子があると考えられ,部分トリソミーの人たちに見られる共通のトリソミー領域を解析する研究がなされてきました.私が天使病院に赴任してすぐのころに出会ったダウン症の赤ちゃんがまさにその部分トリソミーを持っていました.21番染色体の末端の1/4ほどを残しておよそ3/4に当たる部分がトリソミーでした.そのトリソミー部分の詳細な範囲を解析し,どんな遺伝子があるかという研究をしたところ,従来言われていたダウン症として最低限必要とされるトリソミー部分を大きく絞り込める成果が示されました.そこに存在する遺伝子の一つがDYRK1Aでした.2008年にこのことを発表いたしましたが,それから2010年代になって,この遺伝子のトリソミー効果が知的障害の原因になることが示唆され,動物実験でこの遺伝子の過剰発現を相殺する薬物が発見されたりしました.今回の北畠先生たちの研究はヒトのiPS細胞に遺伝子編集の技術を導入しこの遺伝子の過剰発現の効果を証明した画期的なものです.この研究の成果はダウン症の発達の遅れや知的障害,さらにはアルツハイマー病の合併と言った非常に重要な問題の原因に大きくせまり,治療の道を切り開くものと思います.今後の研究の進展に期待したと思います.
3 21トリソミーとISR
ISRという言葉をご存知ですか?実は私も数年前まで知りませんでした.英語でintegrated stress response ですから統合的ストレス応答とでも訳しましょうか.生き物には様々なストレスが襲い掛かります.空腹になったり,感染症になったり,怪我をして失血して血液不足になったり,このような様々な「危機」に対する細胞の一般的な反応とされるのをISRといいます.具体的には,細胞は自らのタンパク合成を一律に抑制する一方,ストレスに対応するためのタンパク合成を行うというものです.人にはタンパク質をコードする遺伝子がおよそ2万個あるとされていますが,21番染色体にはそのうち230個ほどがあります.ダウン症の人では21番染色体が3本ありますから,この230個の遺伝子は1.5倍の量のたんぱく質を作ることになります.全体に占める割合では1%程度でしょうが,生体にとって,タンパク質の量のバランスが部分的に良くない状態となります.これがストレスになるという考え方がでてきました.先ほどのDYRK1Aという特定の遺伝子の効果がダウン症の症状に影響する一方で,何の遺伝子かは問わないが,多くの遺伝子が過剰にあるとそれだけで様々な病態を起こすという考えが支持されるようになってきたのです.この考え方をもとに治療にむすびつける方策が検討され始めています.
4 NIPTのこと
NIPTすなわち新型出生前診断は妊娠中の女性の血液の中に含まれる胎児由来の微量のDNAを解析して,胎児に染色体異常症があるかどうか調べる方法です.わが国でも実施されて10年近くになります.高齢の妊婦に対して,常染色体の数の異常症を対象として行われてきましたが,陽性反応が出た場合には羊水検査で確定診断を受けるというのがルールで,このため専門的な情報提供と遺伝カウンセリングがなされなければなりません.ところが検査希望者の増加に対しきちんとした対応のできる医療機関は限られています.そんな中,専門外の医療施設で,この検査を実施するところが次々と現れ,妊婦の多くがこのような非専門的な施設で検査を受ける状況になってきました.私のところにも予想外の陽性反応がでて,どうしたらよいのか悩んで受診する方も見られるようになりました.専門的かつ倫理的な判断を必要とする検査が,十分な情報提供や意思決定の支援プロセスを経ることなく行われている現状は非常に憂慮すべきことと考えます.今後は対象となる妊婦の年齢制限が撤廃されますし,将来にはいろいろな疾患のNIPTによる診断が可能となってきます.どの疾患は対象とすべきで,どの疾患は検査すべきでないか決めることは不可能です.社会正義や倫理基準というものはこの問題に関して明確な答えを用意していません.だからこそ,個々の事例に対し,誤った情報に基づいて判断することがないよう,苦痛や不安を解消できるよう,そして当事者の意思や考え方が尊重されるやり方で意思決定をサポートすることが必要となります.前述した研究の進歩により,胎児への治療が可能となる時代が来れば,出生前診断の意義は180度変わることになります.そうなることを夢見て,今は不幸な決断がなされないよう専門的に支援するよう努力していきたいと思っています.
参考文献 1. ダウン症児の脳の性状発達をみだす遺伝子を発見. https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2021/20210614_1 2. Sato D, Kawara H, Shimokawa O, Harada N, Tonoki H, Takahashi N, Imai Y, Kimura H, Matsumot N, Ariga T, Niikawa N, Yoshiura K (2008) A Down syndrome girl with partial trisomy for 21 pter-q22.13: A clue to narrow the Down syndrome critical region. Am J Med Genet A. 146:124-7.
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