天使病院小児科医師 外木秀文
II ダウン症の赤ちゃんが生まれたら
パート5 ことばの問題
ダウン症のお子さんにとって,言葉が苦手,特に話し言葉が上手にできないのが悩みですね.
実は「お医者さんにとっても言葉は苦手」なのです.言葉がなかなか上手に話せないお子さんは多いのですが,医師はそれについて適切な指導ができるかというと必ずしもそうではないのですね.「言葉の遅れ」,「発音が不明瞭」,「吃音」,「言葉が少ない」など子供が抱える言葉の問題は実は多様です.医師の多くはこれらに精通していないので,ダウン症の言葉の問題をサポートしてきたのは一部の専門的な医師の他には,教育学を専門とする先生や心理学・言語療法・聴覚あるいは育児・療育に関わる専門家たちです.今日,ダウン症の言葉の問題に関する多くの分析や指南書は後者の手によるものが多いのが事実です.
さて,ダウン症と診断を受けた後,精神運動発達の遅れが最も大きな問題であるというお話をされるでしょう.言葉の遅れはその発達の遅れに関係した一つの問題なのですが,「言葉が出るのが普通の赤ちゃんが1歳前後であるのに比べて,ダウン症の幼児では2歳過ぎと遅くなるのが普通ですよ.だから訓練しましょうね.」などといわれることがあっても,実際には医師の多くは(私も含めて)せいぜい「頑張って訓練をしてくださいね.」と激励するものの,そうそう微に入り細に入り指導してくれるものでもありません.
あらためて,「言葉を話す」ということはどういうことなのか原点に振り返って考えることで,乳児期にお子さんにどうアプローチするとよいのか一緒に考えてみましょう.
人は猿との共通の祖先から進化し,言葉を話すことができるようになった稀有な動物種ですが(チンパンジーなどは少し言葉を話すようですが..),言葉は基本的に他の個体の聴覚を刺激する一連の音声の順列からなるもので,固有の意味を持つものです.
1)この一連の音声の順列はアクセントや抑揚の違いにより,異なる意味を持つ言葉となります.例えば「はし」には橋・端・箸のちがいがあるのでご理解いただけるでしょう. 2)言葉(単語)は適切な順序で複数並べることで文として,高度な意味を伝達する手段となります. 3)言葉や文は,アクセントや抑揚の違いにより,肯定文であったり疑問文であったりします.また,声色や強弱によって,哀願・諦め・命令など伝える内容が変化するし,感情の表現を可能とします. 4)言葉は視覚を刺激する媒体 すなわち文字や絵・記号に置き換えて記録したり,伝達することができます. 5)言葉の最も原始的なものは「泣き声」です.子供は激しい痛みで泣き叫びます.大きなショックや恐怖で泣き叫ぶこともあるでしょう.赤ちゃんではミルクをほしがるときあるいはおむつが汚れたときすなわち「空腹」「不快」が泣くことの原点なのでしょう.泣き声を言葉というのは原始的といったにせよ適当ではないかもしれませんね.というのも犬が威嚇のために吠えたり,飼い主の関心を引くために吠えるのはご存知でしょう.動物では仲間に危険を知らせるため,なわばりの主張などのため「声」を使っています. 6)泣き声の次に赤ちゃんが発するのは「笑い声」です.ハッピーな感情の表出あるいは伝達ですね. 7)その次のステップで固有の「発音」が始まります.ぷぷぷ...ぱぱぱぱ..が最初に出てくる音です.軽く唇をあわせて,息を少し強く吐くと音がします.唇を開くときのフィニッシュの形で「ぱ」と「ぷ」の違いが出せますね. 8)その次は母音の発音ができるようになり,続いてま行,た行の発音をするようになります.軟口蓋の動かし方,舌の使い方が必要な発音です. 9)こうした音を母親に向かって出してみる.上手ねと褒められるとにっこりと笑う.親だけじゃなくて人形やおもちゃに対しても声を出す.音声によるコミュニケーションの始まりです.そのうち同じ音を2つ3つとつなげていく,あるいは1つの呼気の時に出る音を複数つなげてみる.「あいー」とか「ぱんぱん」とか.これが「喃語」です. 10)こうした過程は自分の口から出た音とママが話す音が同じかどうかを確かめるものでもあり,すなわち試行錯誤と検証の過程でもあります. 11)そうして,すべてが順調にいくと1歳前後で「まんま」としゃべるようになるわけですが,ダウン症の赤ちゃんではそういかないわけですね.
では,どこに問題があるのでしょう?
聴力が大丈夫なこと,視力が大丈夫なことが大事な条件ですが,1歳前後までの乳児期について考えてみましょう.
① 発達遅滞:聴覚処理をへて言語を理解する能力の障害. ② 発達遅滞:言葉を発するための必要な筋肉の適切な動きをさせられない. ③ 発達遅滞:巧緻運動の障害:口の形・舌の動きと呼吸のコツの習得が困難 ④ 筋緊張の低下:口の動きが思ったようにできない. ⑤ 形態的な問題:口が小さく,比較的舌が大きい ⑥ 発達遅滞:自分が発する音とママから聞こえた音が同じだと確認する作業がうまくいかない.
これらが,ダウン症の赤ちゃんでいわれていることです.言葉が出るようになってからも発音や構音障害・コミュニケーションの問題を抱える子が多いのですが.乳児期に絞って考えると以上のようなものに集約できると思います.
さて,そこで言葉の上達のために乳児期に何ができるでしょう?
母国語のことを英語ではmother’s tongue といいます.直訳すると「お母さんの舌」です.お母さんの話すきれいな日本語を聞いているうちに私たちは普通に日本語を話せるようになります.知的能力が高い人でも海外留学をして実践的な英語を学ぶとわかることは,アメリカ人が話すように英語を話すことは非常に困難だということです.例えば日本人は英語のRとLの音を区別できないと言われます.rightとlightが聞き分けられないし,区別して発音するのは困難です.どちらも「ライト」で同じ音を持つ単語に置き換わって認識するからですが,実はこの根源的な認識の違いは乳児期に聞く母親の言葉で決まるとされています.よく,江戸っ子が「ひ」と「し」を区別できなかったり,韓国の人が日本語の濁音を適切に発音できなかったりするのと同じことです.すなわち,この耳と脳からなる話し言葉の音(note)の認識ができるのが乳児期なのです.ですから,この時期にたくさんたくさん言葉を聞かせることが大切だと思うようになりました.そしてそれ以外の上達法はありません.ニコニコしているだけの赤ちゃんにひたすら一方的にお話する.それでいいのです.真似して言ってごらんという必要はありません.英会話の上達法と同じです.ひたすら音として聞きまくることが大事です.ただ,ラジオやテレビあるいはCDなどで日本語漬けにするのは当然×です.お母さんの優しい声と心地よい抑揚,平易で短い言葉,喜びや安心を与える言葉が,スキンシップや笑顔やぬくもりとセットで与えられることが大切です.
他にダウン症特有の筋緊張低下への対応として,口輪筋のマッサージや離乳食をよく噛んで食べる練習など口や舌を動かす筋肉の「理学療法」が重要だともいわれています.口輪筋は口をすぼめたりとがらせたりする働きがあります.このほか咬筋(下顎を上下させ要するに噛む筋肉),側頭筋(同じく物を噛んだり噛みしめるのに働く筋肉)をしっかり使えるようしたいのです.離乳食が始まったらゆっくりよく噛んで食べるよう心がけましょう.口が小さいので一回に口に入れる量は少なくしましょう.
言葉のトレーニングは1歳過ぎてからと思っていませんか?乳児期からできることは他にもあります.好きな音楽をかけて,赤ちゃんを抱っこしてリズムに合わせて体を揺らす.体を動かすときに掛け声や擬音(ばたん・ごろんとか,すいすいとか..)を使い呼吸と発音のコツをつかむなどの試みも○です.家族の会話も平明できれいな言葉で行いたいものですね.怒鳴りあったり,大声で叱ったりするのは避けたいものです.
ダウン症の子の言葉の問題は多くの子や家族にとって悩みになります.ただ,その原因が実はよくわかっていないのです.脳の発達の遅れ,筋力の低下/筋緊張が低い問題,しばしば合併するというより多くのダウン症者に起こっているのかも知れない聴覚障害が今のところ理解できる要因ですが,これだけでは多くのダウン症の子が,聞いた言葉の理解が比較的できるのに対して,一様に話し言葉を操ることが徹底的に苦手な問題はうまく説明できないのです.
新たな視点からアプローチを考えなくてはいけないのだと思います. 乳児期にできることを私なりに考えて書いてみました. 言葉の問題は幼児期の問題としてまた改めて書いてみますね. 次回は,乳幼児期のダウン症の子の風邪やインフルエンザといった感染症との戦いについて考えてみましょう.
参考文献 ダウン症のある子どもたちとの楽しいコミュニケーションのために -今,私にできること- 石上志保 www.jdss.or.jp/info/201709/20170929_3.pdf 新 ダウン症児の言葉を育てる 池田由紀江・菅野敦・橋本創一 福村出版 小児内科 2014年11月号 小児の言語発達とその障害 東京医学社
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