天使病院小児科医師 外木秀文
Ⅱ ダウン症の赤ちゃんが生まれたら
パート4 運動発達の問題
人間は生まれたとき身長は平均50 cmで体重は約3 kgです.一人で立ちあがることはおろか,ほとんど動くこともできません.それが1歳を過ぎると一人歩きができ,普通の食事が食べられるようになり,片言が話せるようになります.身長は平均75 cm 体重は9 kgになります.それは誰もが経験する当たり前のことでしょうが,改めて考えると驚くべき変化です.さてダウン症と診断された赤ちゃんではこの成長と発達に難があると言われています.とりわけご両親にとっては発達の問題が重大な関心事でしょう.発達については小さな子供の場合は,運動面と精神面の能力の向上の度合いで評価するのがわかりやすいと思います.具体的には発達のマイルストーンと呼ばれる指標に到達する月齢あるいは年齢で見ていくわけです.首が座ったのはいつ頃?一人歩きは?片言が言えるようになったのは?というわけです.
表1にそのマイルストーンを示します.一般小児とダウン症児の粗大運動の平均達成年齢としていくらか差があることがわかります.
表1 粗大運動のマイルストーン
同様におしゃべり能力のマイルストーンも載せておきましょう.表2をご覧ください.ダウン症の子が言葉の出るのが平均して1年程度遅れを取るということがわかると思います.
表2 表出言語のマイルストーン
さて,これらのマイルストーン達成の遅れはどうして起こるのでしょう?脳の発達が悪いから?そうでしょうか? 脳と神経は人間の行動がベストパーフォーマンスを発揮するよう調整する働きを担っています.初めに示した成長に伴うパーフォーマンスの変化を「発達」と言い,運動面や精神面だけでなく人間としてすべての機能がベストの状態に到達する過程をそう表現します.英語ではdevelopmentといい写真の現像を意味する言葉でもあります.すなわち,本来の姿を徐々に現してくる過程のことを意味するのです.そのdevelopmentを支えるのは脳と神経の成長と成熟です.生まれたばかりの赤ちゃんでも脳の形態は成人とほぼ同じです.ただ重量は成人の1/3で約400 gほどです.1年でその重量は倍近くになり,その後はゆっくりと成長します.しかし脳の成長は細胞が増加することではありません.神経細胞は生後1-2か月までに全て出来上がり,それ以降は増加しません.その後の脳の成長は,脳の神経細胞(ニューロン)をつなぐネットワークの充実とシグナル伝達の高速化(髄鞘化)です.神経細胞は大脳皮質で140億個あり脳全体で1000-2000億個ともいわれていますが,これら神経細胞が多数の細長い細胞の腕(神経突起といいます)を遠く離れた神経細胞まで伸ばし,互いにネットワークを形成していくのです.
さて,ヒトは非常に高度な知的能力を持つ動物ですが,それは大脳の発達が担っています.魚類や爬虫類ではこの大脳の発達がなく延髄や橋,中脳,視床,視床下部といった大脳に包まれた芯に当たる部分が脳の主体を占めます.大脳は哺乳類で発達しヒトでは非常に大きくなっているのです.このヒトで発達した大脳部分を「新しい脳」といい,一方で爬虫類などでも発達がみられる脳の部分は,動物が生きていくうえで必須な機能を果たすために必要な部分ととらえられ,新しい脳に対し「古い脳」と呼ばれます.この古い脳の果たす機能はしかしながら,ヒトが生きていくうえでも欠くべからざるものであることには変わりありません.生後この古い脳にある神経細胞が新しい脳すなわち大脳皮質に向けて植物が茎をのばすように一斉に神経突起を伸ばしてくるのです.さて,この古い脳の果たす役割は何でしょうか?列挙してみましょう.
① 呼吸運動の維持,② 体温の調節,③ 食欲の管理(空腹と満腹)④ 睡眠周期の確立,⑤ 姿勢の維持,⑥ 自律神経の調節 ⑦ 情動の発揮,⑧ 性成熟等です.
赤ちゃんの運動神経のマイルストーンに挙げた項目は基本的に姿勢の維持に係るものです.これは古い脳の担当する機能なのです.
神経の発達はこの時期は神経突起の増設と伸長によるネットワーク形成です.それを起こすのはいくつかの要因があると言われています.一つは朝日です.朝,太陽の光を浴びる,皮膚でもそれを感じると神経の感覚が脳幹(いわゆる古い脳とだいだい同義)につたわり,脳の神経突起の発達を促すのです.逆に夜更かしはよくありません.父親の帰りが遅いなどの理由で夕食が遅れることは子供には好ましくありません.睡眠周期の確立は古い脳の発達によるもので,生後4か月ころにはすでに夜間の睡眠時間が長くなりミルクをほしがらなくなるものです.朝早くリズミカルに太陽光を浴びる生活習慣が何より神経の発達のために重要なのです.もう一つ大切な要因は刺激です.赤ちゃんの感覚の中でも特に触覚,聴覚,温覚,位置覚,視覚,嗅覚の刺激は神経の発達刺激になります.このような感覚を適切に刺激してやるとそれは脳に伝わり神経突起の発達を促すのです.赤ちゃんに触れて,赤ちゃんに音を聞かせて,温めて,,,ということですが,実際にはどうしたらよいか悩むことはありません.母親による普通の育児がベストアンサーです.そうは言うものの,ダウン症の赤ちゃんは自発運動が弱いので,母親が授乳したりあやすことを試みても,子供からの反応が乏しく「おとなしくていい子」と判断されがちです.日中はもっと赤ちゃんに関わってあげてください.授乳時に心を交わし日常的なあやしや抱っこを励行することが,この赤ちゃんペースの悪循環を断ち切り発達を促す基本条件なのです.多少押しつけがましくても赤ちゃんを抱いてほおずりして,目を見つめて話しかけてミルクを与える.抱いて歌って寝かしつけて,泣いたらまた抱っこ.これが大事なのです.家庭で養育されたダウン症児と施設収容のダウン症児のマイルストーンの達成状況を比較した研究では「支えなしに座る」という課題について,家庭で養育されたダウン症児では平均12.7か月,施設収容のものでは14.7か月と差が出たとされています.その差は何によるのでしょうか?私は愛情の発露すなわちケアの細やかさだと思います.子供は泣いたときに抱かれて癒されたいと思うものです.母親がすぐに話しかけ抱っこしてくれるそして泣き止んだらにっこりしてくれる.ほめてくれる.これほど幸せな気持ちになれることはありません.古い脳に属する神経はその神経の持つ神経伝達物質の違いから,ドーパミン系.ノルアドレナリン系,セロトニン系などがあります.いずれも恐怖や不安が払拭され,安心や幸福感に置き換わる過程の学習に関与しています.ですから,こうした経験を乳児早期につむことが赤ちゃんの古い脳の機能の発達に寄与し精神的にも安定した子供に育つと考えられてもいるのです.お母さんもお父さんもくよくよしてばかりじゃいられないのですよ.
ダウン症の赤ちゃんの特徴の一つが筋緊張の低下です.筋緊張の低下とは何でしょう?先生に聞いたことがありますか?筋緊張とは筋肉の普段の「張り」のことです.張りの低下は緩んだばねのイメージです(下図参照).
図1 左 緊張のある筋肉,右 緊張の低下した筋肉
ダウン症の人でこの筋の張りが低下するのには1)筋肉組織そのものの問題,2)筋に緊張シグナルを伝える末梢神経の問題,3)それをコントロールする中枢神経の問題,この3つがあると考えられています.この筋の緊張を無意識に保つことができて初めて人は姿勢を正しく保持することができるようになるのですね.そして,中枢神経でこれを担当しているのが古い脳に当たる部分なのです.筋肉に緊張を与えるためには筋肉がそれを感じてこんな感じでいいのだなと学習する必要があります.(これを固有感覚といいます).そのためには手足を曲げたり伸ばしたりして,筋肉の伸び縮みの感覚を何度も何度も教えること.お母さんが笑顔を顔に近づけて,赤ちゃんがもっと見ていたいなーと首や顔を動かすように仕向けること.少しで多くの時間,楽しく体を動かすこと.うつ伏せで手足をバタバタさせたり,声を出して笑ったり,お風呂でばちゃばちゃしたり.バランス感覚を養うこと:お座りの姿勢で体を支えてその手を緩めてぐらつかせてなどなど.いろいろとあるけれど,どれもそう専門的なことではありません.ただ,もともとの筋肉の緊張が弱いから,先に挙げたマイルストーンへの到達目標の達成にはそれでも時間がかかります.なるべく早くこのような試みを始めるほど姿勢保持の発達に効果的と言われています.理学療法士とともに子育てを実践していくことはその点でとてもいいことだと思います.
そこで,理学療法士さんからの発達の遅れ・筋緊張の低下を持つ子供たちのエクササイズに関するアドバイスをいくらか紹介しておきましょう.
1)姿勢保持の発達の原則を覚えましょう:①首が座る→②寝返りをする→③座らせると座っている→④一人で座れるようになる→⑤おなかを挙げてはいはいする→⑥つかまり立ち→⑦伝い歩き→⑧独り立ち/一人歩き.これは筋緊張が頭から足に向かって徐々に確立していく過程の表れです.
2)抱っこの励行:なんといっても抱っこが一番大事です.赤ちゃんの重さ,肌の柔らかさ暖かさ,手足の強さを親が感じられる一番が抱っこです.抱っこしてゆすってあげる,少し向きを変えてあげる,しっかりホールドしてあげる.こういった接触の感覚はまさにスキンシップですが発達を促す意味でも大切です.
3)基本動作で固有感覚を養う:①あおむけで両足を曲げ伸ばし.たいていの赤ちゃんはにっこりします.②あおむけで右ひざを曲げ臍につけるように左に回旋し下半身をねじるように運動します.寝返りの練習です.もちろん反対の足も忘れずに.それ以外にもいろんな運動をしてあげましょう.
4)首が座ったら(腹ばいで少し顔を起こせるようになったら)積極的に腹ばいにして手足を自由に動かせましょう.重力に逆らう筋力増強の基本的なトレーニングです.ただし,やわらかい布団の上で行ってはいけません.
5)首が座って,寝返りができるようになったら,少し加速度を感じてもらいましょう.高い高い(揺さぶってはだめですよ),ぐるぐる回り,毛布ブランコなどダイナミックに体を動かす遊びをしてみましょう.お父さんの出番です.
6)はいはいをしようとしたり,立とうとしたら励ましたり,声掛けをしながら見守ってあげましょう.
7)その他おもちゃを使ったり,危険でない範囲いろんな運動を試してみましょう.試行錯誤も多いほど赤ちゃんにとっても学習能力や運動能力を養うことにつながります.
最近の研究によるとダウン症では脳の神経細胞の数が少ないことがわかっています.その中でベストパーフォンマンスを引き出す過程である‘発達’はその神経細胞のネットワーク構築にかかっています.神経細胞がたくさん枝を張り巡らせるだけではいけません.むしろ余計な枝を剪定する過程(刈り込みといいます)が重要とされています.そのためにも様々な刺激をあたえつつ,成功体験を重ねることが脳に良い効果をもたらすと考えられます.大事なのはポジティブにとらえること.親から率先してその思いでお子さんに向き合っていただきたいものです.
参考文献 筋緊張とは?制御メカニズム、筋緊張が保てないことで何が困るか、固有感覚の鍛え方を解説! https://h-navi.jp/column/article/35026515 成田奈緒子 脳と心の発達メカニズム http://www.syougai.metro.tokyo.jp/sesaku/nyuyoji-sonota/shidoshashiryo3-1.pdf 穐山富太郎他 ダウン症児早期療育の効果 リハビリテーション医学21:143-148, 1985
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