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第29回難病患者・障害者と家族の全道集会

「家族の訴え」 ダウン症候群の息子に未来を

釧路分会 T.A

 我家のアイドル伸雄は、昭和57年5月「ダウン症候群」と合併症の「心室中隔欠損症」 という大きな荷物を背負って天使のごとく私たちの前に舞い降りてきました。生後1ヶ月検診でダウン症候群と診断され「ダウン症候群とは精神薄弱であり心臓疾患が伴う場合は最悪の状態です。1歳まで生きられるかどうかです」お母さん落ち着いて聞いて下さい…、との前置きがあり、ゆっくりと説明してくれる担当医の声を遠くに聞きながら死なせない、  絶対守ってみせる、と心の中で何度もくり返していました。

 「月に一度検診に来て下さい。手術するにしても1歳位までは様子をみましょう。その間に少しでもいつもと変わった様子が見えた時は電話してから連れて来て下さい。準備して待っていますから。」という医師の指示でしたが、飲み薬もなく注射もなく心細いものでした。

 発作は何度もありました。決まって夜中の2時3時という家族の寝静まった時間帯でした。とっさに抱きあげる私に腕の中で息は吸うものの、吐く事ができず唇は紫色に変わっていきます。のけぞって苦しむ姿に主人を呼ぶ事も病院に電話する余裕もなく、ひたすら名前を呼び続けていました。長い長い闘いの後、大きく大きく息を吐き、その後はぐったりと眠り続けます。発作の無い時は眠ってばかりいて手のかからない子でしたが、最初の発作があってからは私が眠っている間にこの子が死んでしまっていたらと思うと、眠れなくなり1日3時間位家族のいる時に仮眠するという状態が7ヶ月近く続きました。

 見兼ねた主人が「ちゃんと見ててやるから寝た方がいい」と言ってくれるのですが、野球中継に夢中になっていて、死んでいるのに気が付かなかったら・・・と思うと主人さえ信じられなくなっていました。

 6度目の発作が起きた時はいつもと違っていました。今度こそダメかもしれないという思いと、あきらめたら負けてしまうという思いが交錯する中で、旅立つなら私の腕の中で見送ってあげよう、そう覚悟を決め名前を呼び続けていました。診断を受けてから生後7ヶ月目の事でしたが、この日を最後に心室中隔欠損も小さくなり、発作が起きる事もなくなりました。

 そして1歳の誕生日を迎える頃には、「気をつけながらあまり神経質にならないで普通の生活をさせてあげて下さい。」との指示を最後に心臓に関しては二度と病院へ行く事はありませんでした。

 2歳を過ぎてからやっと物につかまって立てるようになり、徐々に自力で歩行できるようになりました。この頃からダウン症部会「小鳩会」を通して難病連との出会いが始ま りました。

 釧路養護学校に入学し小学部の時に、私は当時支部長をしていた上田弘さんの元で5年間事務局として釧路支部のお手伝いをさせていただきました。どこへ行くのも伸雄と一緒でしたが、1分としてじっとしていないのでちょっと目を離すと煙のごとく消えてしまい、支部の皆さんには随分お世話をかけ通しでした。ある時は、会合中いなくなり皆で探し回っても見つからず、ふと立ち止まった時に隣ビルの6階の窓から陽気に歌う声が聞こえてきたり、全道集会旭川大会ではホテル中を探し回ったりと、こんなことは日常茶飯事でし た。

 中学部の時に2週間下痢が続いたり、お風呂に入る度にめまいを起こして倒れそうにな るので病院で診てもらった結果、ストレスが限界に達し自律神経のバランスがくずれているとの事でした。生まれた時の心臓病も気になるので24時間心電図をつけて測定しましたが、異常はなくストレスの解消に先生の協力を得て無事乗り越える事ができました。

 中学部を卒業し、中標津高等養護学校では寄宿舎生活ですので毎週毎週車を運転し、片 道2時間の送り迎えが始まりました。吹雪の日は片道3時間以上もかかったり、凍結した登り坂の途中で動けなくなったり、吹雪で道路が閉鎖され家に戻れず一泊したり道東の冬は特に厳しく、命がけの3年間だったように思います。

 中標津高等養護学校に入学した頃から、卒業後の進路の事は誰でも考える事です。私も伸雄の小さい頃から難病連をはじめ「釧路手をつなぐ育成会」や「知的障害者釧路職親会」 の中で活動に参加して来ましたが自宅から通える就職先や作業所も少なく、定員に達している所ばかりでした。職親会でも企業の受け入れ先は減少し、リストラによる自宅待機者が増えてきている事から重度の子供たちの働く場所は更に厳しくなっていました。

 「働く場所がないのなら作ろうか」という事で早速活動が開始されました。運営資金が少ないので古い民家の空き家を探し、お母さん達が集まり金槌やノコを持ち寄って手作りの内装工事を始め、平成12年4月に「地域共同作業所ぴーぷる」が開設されました。

 2年目は運営委員会の皆さんが全員ボランティアで手伝ってくれました。ボランティアとして手伝っていたつもりが、代表という責任ある立場で運営する事になり、経験も資格もない私は手さぐり状態で「ぴーぷる」を始める事になりました。2人の通所者を受け入れやっと開設したものの問題は仕事です。紹介していただいた所を回りご祝儀替わりにいただく仕事はわずかなもので、すぐに仕事がなくなってしまいます。再度お願いに行っても新しい作業所のためか、信頼もされず仕事を続けて回してはもらえませんでした。仕事がなくなると彼らは落ち着きがなくなり、イライラが始まります。何もない空白の時を楽しく過ごせる程コミュニケーションをとる時間もなかったのです。

 「明日の作業はどうしよう」という日が続き、思いつくままに眠らないで仕事作りをし た事も度々でしたが、時と共に少しずつ仕事を回してもらえる様になり私達の気持ちにもわずかですが、先を見る余裕ができてきました。高等養護学校でミシンの訓練を受けてきた技術を伸ばしてあげたいとの思いで民間の助成金制度に応募し、2台のミシンを購入する事ができて雑巾を縫ってバザー等で販売も始めました。

 13年度には資格のある指導員も入って道と釧路市から助成金が受けられるようになり、作業内容も安定してきました。釧路市から資源ゴミの回集袋の縫製を委託され「ペットボ トル」と「発砲トレー」の専用袋を作っています。その他、肥料袋の部分品を手作業したり縫製したりする仕事が順調に入るようになりました。一時はあまり辛くてやめようかと思った事もありましたが、頭を下げ続けた甲斐があり今では少しずつ信頼してくれるようになって来たように思います。

 伸雄も「ぴーぷる」に通所するようになって2年になります。学校で習ったミシンの作業を生かして雑巾を縫ったり、エプロンを縫ったり、スマップやキンキキッズの歌に合わせて楽しく作業に参加しております。今日ロビーで販売しているパウンドケーキも、通所者の皆さんと職員とボランティアの皆さんに支援していただいて作ったものです。

 今では伸雄も母親と職員の区別ができるようになり、私の車をあてにする事もなく朝も 一人で歩いて通い作業が終わると皆と一緒にさっさと帰ってしまい、私が帰るまで家で自分の時間を楽しんでいてくれます。

 「1歳まで生きられるかどうか」と医師に言われ、心臓発作に苦しんだ日々から20年、 伸雄は今年二十歳を迎え元気一杯の青年に成長してくれました。

 これから先、親が体調を崩した時、そしていずれ来る親なき後の生活、心配のないグループホームの確立、施設の整備が納得いくような態勢である事を切に希望いたします。

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