「こばと」213号
世界ダウン症の日(2018年)特集は こちら のページをご覧下さい。
左から W 宗一郎さんのお母様からのメッセージです。 |
北海道小鳩会40周年記念旅行の時に、講演していただきました天使病院の外木先生の今月号から『ダウン症の生涯を通しての健康管理について』連載していただけることになりました。
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ダウン症の生涯を通しての健康管理について
天使病院小児科医師 外木秀文
I ダウン症の「ことはじめ」: 前書きに代えて ダウン症候群について,世界で初めて医学専門誌(主に医師を対象とした専門雑誌)に記事が掲載されたのは1866年のことです.『ロンドンホスピタルレポート』という雑誌にジョン・ラングドン・ダウン博士が執筆したものです.日本では江戸時代の最末年で慶応年間にあたり,大政奉還の1年前のことです.ロンドンは栄光のビクトリア時代,産業革命をいち早く成し遂げ,世界の7つの海を制覇しアフリカ・インド・カナダ・オーストラリアそして中国にも進出し,植民地帝国を築き上げた時代のことです.すでにこのころロンドンでは地下鉄が開通し,人々が馬車で行きかう時代から鉄道で移動する時代に移り変わっていました.シルクハットの紳士やシャーロック・ホームズの活躍した時代のイメージが重なります. ダウン博士の論文のタイトルは「知的障碍者の人種的な分類」というものでした.その中でのちにダウン症とされる子供たちについて,吊り上がった目尻,厚いまぶた,低い鼻,まるい頬,未発達な下顎,小柄な体格,直毛で薄い毛髪の特徴があることを取り上げ,そこからモンゴル人などアジア系民族由来の遺伝的な障害として「Mongolism(蒙古人症)」と分類しています.蒙古症として知られるようになったダウン症候群ですが,他の多くの病気の原因が解き明かされていく中で,その原因が解明されるまでにはおよそ90年待たなければなりませんでした. 1959年フランス人の小児科医ジェローム・レジューヌが2つの学術論文を発表し、ダウン症が染色体の過剰(トリソミー)が関係していることが報告されました.これは今でいうゲノムすなわち遺伝情報の構成的異常が病気の原因になることを初めて示唆した歴史的な発見だったのです.20世紀の前半に光学顕微鏡でヒトの細胞の染色体を観察できるようになったものの,実は染色体数が46本であると確定されたのは1956年のことです.この年初めてチヨー博士とレヴァン博士によってヒトの染色体の解析方法の基礎が確立され,それからは一気に先天性疾患と染色体数の異常についての研究がすすめられました.全世界の目が染色体研究に注がれたのです. レジューヌ博士は小児科医であり,遺伝学者でもあります.彼の実験記録によると蒙古症の患者のサンプルで21番染色体が1本多いことを観察したのは1958年5月22日となっています.実際には論文発表より1年先んじているのですね.いづれにしても.ロンドンの眼科医が1866年に初めて医学雑誌に報告して以来92年を経ていました. 医学的な論文は別として,蒙古症と称されるようになったダウン症の幼児の姿は5世紀のメキシコのテラコッタや15世紀のヨーロッパの聖母像のキリストに似せて宗教画にもしばしば登場します.ダウン症の子供の持つ穢れない無垢さが幼きキリストと重なるのであろうか?と思ったりします. ダウン症は出生1,000人に対し1人の割合で生まれてくるとされています.それは歴史をさかのぼった中世でも古代の時代でもあまり変わらなかったのでしょうし,人種や民族での極端な違いもなかったのでしょう.あくまでも想像ですが,社会の中で,少し変わった貴重なこどもとして愛される存在だったのではないでしょうか.そうでなければ,ルネッサンス期のイタリア人画家アンドレア・マンテーニャやオランダ人画家ヤン・ヨースト・オブ・カルカーの後継者の手による宗教画に描かれることもなかったでしょう. しかしながら,科学の時代が到来しダウン症は多くの困難や誹謗に直面することになります.チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を世に問うたのが1859年です.ダウン博士の論文にも垣間見られる民族の優劣がヒトの進化の過程で起こる産物であり,その仮説の延長上にダウン症を位置づけるような進化論的な考え方が説得力を持ったことは想像に難くありませんね.従って,その後100年にわたり,ダウン症は蒙古症と呼ばれることになります.当時の人種偏見がなんの疑問も持たれなかった欧州の社会常識であったにせよ,そのような呼称を受け入れるは不愉快な思いになります.ヒトの考えは世代が変わらなければ心底変わることはありえないというのが私の思いです.私が学生時代に買った1977年版の世界的権威のあるハリソン内科学教科書にも,「トリソミー21(ダウン症または蒙古症)」と併記されています.1959年染色体の過剰が原因であると解明された後は,人種に無関係な疾患であることが証明されたのにもかかわらず,モンゴリズムと呼ぶことが終わったわけではなかったのですね. さらにはオランウータンやチンパンジーの染色体数が48本であること知られた後は,染色体数が47本であるダウン症はヒトとオランウータンの中間の生き物であるなどいう心無いことを言う人もいたといいます.染色体が遺伝子の貯蔵庫であり運び屋であることの理解が進む中,進化のメカニズムを説明する仮説としてまことしやかに考えられたこともあったようです.根源には人種や差別,優生思想が根強くあったのだと思わざるを得ません. そのきっかけとなった論文を発表したダウン博士にはあまりいい気持ちを持てないでおりましたところ,ダウン博士のその後の「遺産」を知り考えが変わりました.遺産の一つはノーマンズフィールド病院です.ロンドンの西郊テディントンにダウン博士が設立した病院は「知的障害をもつ患者のための施設」です.確かダウン先生は眼科医だったはずですが,この病院を設立したのは1868年,彼が40歳の時になります.さすがは資産家の英国紳士ですね.そして,彼の死後1896年以降は彼の2人の息子が病院経営の事業を受け継ぎます,障害を持つ人のために大きな貢献をしたのでしょうね.これは,ものすごく画期的なことだと思います.まだまだ,資本主義一辺倒で子供の炭鉱や工場での労働が問題となり,福祉などといった考えがあまりない時代です.ちなみに同じロンドンで翌年の1867年にカールマルクスが資本論を出版しています.そんな時代にダウン先生は知的障碍者あるいは学習障害の子供たちのために大きな貢献をしたのです. さてダウン先生にはもう一つ「遺産」があります.1905年に一人の男の子がダウン家に生まれます.祖父の名をとってジョン・ラングドン・ダウンと名付けられた孫はかの祖父がモンゴリズムとして記載した病状をすべて備えた男児でした.このとき祖父のダウン博士はすでに他界していましたから,この孫とは生きて会うことはかないませんでしたが,若いほうのジョン・ダウン氏は家族の中でとても愛され,生家で65歳の天寿を全うしています.スーツを着て家族と写真撮影された姿を目にすることができます. 彼が亡くなる数年前のことですが,世界的に権威のある医学雑誌である『ランセット』に著名な遺伝学者から,モンゴリズムという差別的な呼称をやめようとの記事が掲載されました.これに呼応してランセットの編集者はDown syndrome:ダウン症と呼ぶことにしようと提案しました.これは世界中の医師や患者の支持を得ることになります.1961年に始まったこの運動は1965年に結実します.世界保健機関(WHO)がこの決定を正式なものと宣言したのです.以来ダウン症が正式名称となりました.おじいさんの方のジョン・ダウン氏がこの病気をはじめて報告した時からちょうど100年といってもいいでしょう.この歴史的な業績だけではなく,彼のその後の障害を持った人に対する大きな貢献やダウン一家の素晴らしさが病名にその名を冠するに値するものと考えるとき,感慨深いものがあります. ダウン症にとってもう一人の重要な貢献をしたフランスのジェローム・レジューヌ博士は学者として,染色体異常症が病気の原因となること世界で最初に証明した偉大な業績があります.1959年のダウン症の発表に続いて,猫啼き症候群が5番染色体短腕の部分欠失であることを1963年に発見し,さらに1970年―1971年にかけてトリソミー8とトリソミー9を見出しています.彼の遺伝学的功績に対し1962年ケネディ大統領が個人的な表彰をおこなっており,1969年には遺伝学者として名誉あるWilliam Allan 賞を受賞しています. レジェーヌ博士は多くの染色体異常症の原因を明らかにしました.この発見をもとに染色体分析による出生前診断の技術が開発されました.最初の胎児の染色体分析は染色体異常が示されたころと時を同じくしてなされともいわれています. しかしながら,自身の発見が元になった技術で多くの胎児の生命が奪われていくのを目の当たりにして,ジェローム・ㇾジューヌに悩み憤ります.敬虔なカトリック教徒であった彼にとってこのことはひどくつらいことでした.とても受け入れることができなかったようです.彼はこのような出生前診断が胎児の人工流産につながることに対し反対の立場をとり,その後の多くの時間を割いてモラルの面から妊娠中絶のいろいろな規制緩和に対し抵抗を行っています.このような話を聞くと,原子爆弾の理論を築き上げた科学者が核拡散に反対している状況と重なり合うものを感じるのは私だけではないでしょう.彼は1994年に世を去っていますが,1997年ローマ法王ヨハネバウロ2世はWorld youth dayでパリを訪れた際に彼の墓を尋ねています.彼はカトリック教会から“Servant of God(神の召使)”に列せられています. 最後にダウン博士の遺産について付け加えておきましょう.1997年ノーマンズフィールド病院は閉鎖されました.その後,2010年,建物は英国のダウン症協会に寄付され,その事務局と国際ダウン症協会の事務局が置かれています.さらにジョン・ダウン博物館が施設内に開館,かつて病院に併設されたノーマンズフィールド劇場も公開されているそうです. ダウン博物館のホームページには,このダウン博士の遺産であるビクトリア朝様式の建物は“ダウン症の心のよりどころ”と紹介されています.まさにその通り.俗っぽい言い方で「ダウン症候群の聖地」などと呼ぶのは憚られるにしても,ジェローム・レジューヌの墓所とともに、すべてのダウン症の方々,いやすべての人にとって貴重な体験ができる場所だろうと思います. |
帯広分会からの報告
すこやか農園収穫祭の報告
(記 折戸) |
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茶話会の報告
(記 高橋)
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成年後見制度の学習会の報告
(記 田村)
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苫小牧分会からの報告
斉藤フミ子さんを囲んで勉強会レポ
(記 中村)。 |
函館分会からの報告
ちびママ交流会に参加して
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ボウリング大会
(記 合田) |
札幌分会からの報告
菅野敦先生セミナー
(記 細川)
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施設見学会
(記 小野寺) |
支援学校見学会
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小学部 個別に日課を把握するための時間割表や、わかり易い時計がある。 |
中学部 アクリルたわし制作やリサイクル作業。 |
高等部の紙すき作業。 他ミシン作業、のぼりのチギリ部分のシール剥がし等、個人に合わせていくつかの作業種がある。 |
見学を終えて
(記 仲島) |
クリスマス会
(記 大野) |
第20回北海道出生前診断研究会・記念シンポジウム報告
10月28日札幌市北区で行われた第20回北海道出生前診断研究会・記念シンポジウムで、三好明子さんがダウン症者の親の立場で講演を行い、シンポジウムに参加しました。医療等の専門家の中、親の気持ちを伝えることができました。 共に生きる社会を願って 授かった命は、障がいがあってもなくても尊く大切で、どの命も同じ重さです。出生前検査の技術のみが進歩するのではなく、『子どもにハンディキャップがあって生まれても、安心して育てていける』 誰もがそう思える社会になって初めて、生むという選択も含めて、検査をめぐる多様な選択が等しく尊重される成熟した社会の実現かと思います。 子どもを持つ一人の親として、自分の子どもには素敵な人生を歩んで欲しい!夢を追いかけて欲しい!、そしてなによりも自分の存在を大切にして生きて欲しいと思います。 この気持ちは、子どもにハンディキャップがある、なしに関わらず同じだと思います。 出生前診断が問題になる中で、ダウン症のある人たちが、『ダウン症は生まれてくると困るの!? ぼくは、わたしは生まれてこないほうがよかったの!?』と感じることがあるとしたら、親として本当に心が痛みます。また、今この世に生を受けている、そしてこれから生まれてくるであろうダウン症のある人たちやその家族が、肩身の狭い想いをして生きていく社会になることも危惧しています。 この社会では実に多様な人達が生活しています。ダウン症のある人も、その一員として、みなその人それぞれの人生を当たり前に生きています。全体的な発達の遅れはみられますが、ゆっくりでも1歩1歩確実に成長し、しっかり自分自身の人生を歩んでいます。 しかし、障がいを持っている方へのいろいろな面での社会的な支援が整っているとは言えないことが、“生きづらさ”につながっている現状は確かにあります。 障がいのあることが不幸なことではなく、その障がいゆえの“生きづらさ”と社会全体が、そして障がいを持っている本人も家族も捉え、その人に応じた必要なサポートがしっかり受けられる社会になることがとても大切だと考えます。 出生前診断を通して、共に生きる社会とはどうあるべきか、どんな社会であれば、すべての人がその人らしくありのままに安心して生きていけるのかを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。 |
~シンポジウムに参加したH孝弘さん (祭輝くん H19.5.30さんのお父様)の感想~
〇腑に落ちました 先日のシンポジウムに参加して納得しました。
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第1回日本ダウン症会議 分科会報告
11月12日大正大学(東京都豊島区)で開催された日本ダウン症会議の分科会「障害児者をめぐる法的な動向 -差別解消法1年半を過ぎて-」に、南区の三好宏樹さんがスピーカーとして参加しました。 |
<ダウン症のある方本人からのメッセージ> 三好 宏樹(NPO法人 アラジン ;就労継続支援B型) 皆さん、こんにちは!僕は、三好宏樹。29歳です。 この分科会のテーマは、「障害児者をめぐる法的な動向ー差別解消法1年半を過ぎてー」という僕にはとても難しいテーマですので、今日は、僕の思っていることをお話させていただきます。 今日は、『ぼくたちにももっと機会を』ということで、2点について話したいと思います。 1点目は、ハンディキャップを持っていてもスポーツを楽しめる機会をたくさん増やして欲しいことです。 2点目は、知的障がいを持っていても高等養護学校や養護学校を卒業した後、学べる場所を造って欲しいです。 最後に僕の生活を少し紹介します。 充実した毎日を送っています。これからも、頑張っても出来ないことは、胸をはっていろいろな人に助けてもらいながら、多くのことに挑戦したいです。 |